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やはり個人一人の力とは微々たるなのか。
一人の力はどうせ多勢に無勢なのか。
多大なる組織対して小さき者は既にその存在すらも亡き者とされるのか。
弱き者。その者は常に否定され続け、強き者から常に白き目で見られるのか。
ではその弱いという定義は一体何なのか。
誰しもこの地球と言う奇跡の星に生まれてきた人である。
人は誰しもたった一人では生きていけない。
そのため他の動物とは異なり人間と言う表現ができるのである。
そして社会的判断。客観的判断と言う言葉を使用しても良いだろうか。
同じ人間がそれぞれの地位を決定しそしてその立場において人間そのものの価値を判断する。
果たしてそこに疑問符が付き纏うのが客観的と言う表現であろう。
その客観的と言う言葉は特定の立場に立たないで物事を判断する事であろう。
しかし、厳密に考えるならば逆の言葉である主観的との差異は果たしてあるのか。
客観的とは特定の立場に鑑みる事無しにとなるが実際、現実にはその立場とはありうるのか。
立場とはその立たされた時間そして空間において変化するものでありそして当然それが
自然と言えるであろう。
人は努力する。
その努力の理由としてもしかしたらより強き者ヘと自分自身を変化させようとしているのであれば。
ひたすら人と比較しそして決して社会的立場において強き者ヘと栄達する事のみに
力を注ぐのであれば、それはやはり自然と言う2文字を使うべきなのか。
それでは一体強き者と弱き者。
いずれも同じ人でありそして同じ人間である。
さすれば、一体その判断はどんな人物がするのだろうか。
いやすべきなのだろうか。
人が人を判断する。価値を決める。
そこにどうしても必要な条件として競争という言葉が生み出される。
しかしだ。
一体人とは他人を比較しそして地位を決定しうる事はできるのであろうか。
しかし、現実には行われているし、又行わない限り社会は存在し得ないであろう。
競争と自由。
この自由とは決して解放とは異なり常に不安と悩みを抱え込むことが必然であろうか。
ついぞ常に悩む事こそが生きている証であるのは間違いないようだ。
しかしながら、弱者なら弱者の生きる道そしてそれが身分相応と言う言葉に結論付けられるとしても
私は決して否定できないことが今さらながら強く感じたことをここで記しておく。
ついぞ巨大なる組織の力に立ち向かう事こそがその弱者にとっては身分不相応なのだと
身に染みて感じ入っている今日この頃ですたい。
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