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2007年04月15日

4月15日 力。



休日の静けさを十二分に味わい仕事を進める。
会社の事務所には我以外存在せぬ立場を大いに利用し、パソコンからの音楽で
二つの耳の聴覚を思い存分刺激する。
それにより襲い掛かる眠気を追い払うと共に図面描きの進捗の速度を早める。





この事務所でただ一人仕事する自分にとって休日のこの静けさは不気味とも感じ入る。
その不気味さはいずれ恐怖そして恐れへと変貌を遂げるのか。
私自身の心境はこの先如何なる心の動きへと変化するのであろうか。

それは今現在没頭している仕事に付帯する事実ではなく、帰宅後のいずれ襲い掛かるであろう
真実を頭に思い浮かべている。
それは、日頃の習慣、慣習により脳裏に焼き付けられた事実でありそれこそが真実であるに
疑う余地など一切ない。

それは帰宅後に起こりうる事実でありそして結果でもある。
つまり帰宅後だ。
自宅マンションの玄関扉を開け我が家へと足を踏み入れた瞬間から。
我が家へ体が入ったその時間より。

怖い。そして恐ろしい。

それは毎日怯えながら暮らしているのかも知れない。
毎日常に恐れを抱きながら日常を過ごしているのかも知れない。

もちろんそれには原因がある。理由がある。
それは容赦なく自分自身の我が身へと襲い掛かる。
怖い。そして考えるだけでもやはり恐ろしい。

既にアレルギーであるのは自分自身自覚している。
私は常日頃それこそが力の論理であると真摯に受け止めそしてその事実を身を持って
証明している。

それはその人物の口から発せられる言葉だけではない。
その人物から感じ取れる燃えるような怒りだ。
その雰囲気を家中充満させ、そして否応なしにその人物に従わせようとする。
それこそが怒りのエネルギーであり、その力はいつも私のイニシャルな○な体では
耐え切れない。

常にその人物の言いなりだ。
反抗などしようものならその人物は言葉だけではなく素早く行動に出る。
その反応は素早くそして即座に行動を開始する。

叩かれる。痛い。
それこそがDVだと私は主張するのだがもちろん聞く耳などもたない。
全くの無抵抗な私に対しその怒りを何と叩くという暴力行為に力を注ぐ。
やはり痛い。

これは社会的立場は関係ない。
しかし一方的な力の論理による行動の一つの例だと私自身は主張したい。
毎日私に対しこれら恐怖を植えつけているのは一体誰であるかは。
書けない。
もちろん書けない。
書こうものなら。
如何なる結果になるか。
想像するだけでも総毛立つ。

書き示した我が核家族のある事実は力という言葉の一部分を指し示していると思われる。



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昨日の日経新聞、夕刊のコラムに力についてを司法の視点で書かれてあった。
要約する。


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「対決と和解」 元検事総長 原田明夫


人の営みがある処(ところ)、家庭内から国家間まで利害対立や紛争の種は尽きない。
これを解決する一番手っ取り早い手段は力の論理である。この場合「力」とは暴力のみ
ならず、金力、権力、影響力等人の判断を支配するあらゆる強制力をいう。
実際に力の対立が起こるのは、当事者の力が均衡しているか、弱い側が判断を
誤るか、または自暴自棄になる場合であり、それ以外は強い方が勝ってその目的を遂げる。


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この対極にあるのが裁判など司法手続きによる紛争解決手段である。
この場合「法の支配」の原則に訴えて、弱い側も相手の要求を拒否し、正義と公正を求めて
司法機関の裁決に期待できる。しかし、全ての紛争解決にこのような司法的手段が
使われるように制度設計することは余りに社会的コストがかかり、現実的ではない。
そこで、どんな社会でも、当事者同士が話し合いによって解決を模索する交渉、仲裁や
調停による和解の和解のための努力がなされている。


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多様な社会として形作られた米国では何事も裁判に持ち込まれることが多く、
逆に我が国ではできるだけ話し合いで解決することが上策とされたきた。
不思議なことに、「対決より穏やかな和解的手法」を求める動きが強まる反面、
我が国では、「和」を求めるあまり正義の視点が退きかねないとの反省から、
司法的解決がより強く求められるようになってきた。
このような観点が司法制度改革の底流にあるのであり、迅速・的確な司法的判断の
実現とそれを範例とした和解の努力が求められている。




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これで終わりだ。
皆さんは如何思われるであろう。
私は即座に頷ける部分があった。
それは極身近な事実があるのでありそして身を持って力の論理を体験しているからだ。


力にはどうしても恐怖が付き纏う。
その恐れの為に否応なしに従わざるを得ない場合が多々ある。


力の強制力の一つの例に「いじめ」がある。
それは特に開かれていない誰しもが知らされない閉ざされた場所、処で起こりやすい。


他人にその事実を訴えようがない。
助けを求める人物がいない。
もしそれが自分自身に降りかかったとすれば。
その恐怖に苛まれる事になれば。

更なる恐怖を恐れ、その事実を知らしめることができないとすれば。
いわゆるその事実を他人へと告げることによる更なる力の強制を怖がる。


やはり私は力の論理を打破する一歩は世間への知らしめであろうと自負している。
その事実が知られない事にはその解決の第一歩が踏み出せない。



大人の世界で最も露わなのもはやはり社会的立場による力の強制であろう。
その事実に相手の会社、人物を拒否すれば受注減、、失注、解雇などの恐怖が降りかかる。
その恐怖にいかに対応すべきか。
仕事がなければ当然飯が食えない。
生活ができない。


その現状をいかに打破するか。
愚痴、不平不満そして傷の嘗め合いは決して解決してくれない。





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さて、我が家庭で日頃身近に体験している事実は果たして力の強制による
力の論理の最たる現実であろうか。


その人物に対して面等向かって言えないとするとやはり閉じられた世界での出来事になる。
その論理からするとやはりそうなる。

このブログで事実を公開するする事はやはり開放そして解放の第一歩であるが。
しかし、それは何の解決にもならない。
それだけその人物の力はかなり強大なものであるという証明でもある。


先ず力の論理による強制を受けているという事実を自分なりに把握し客観視する。
他人の意見を聞くのも一つの手だ。
そして解決方法を見出しそして行動する。
何事においても不平、不満そして愚痴を言い放つだけでは俗に言う傷を嘗め合う慰め程度であろう。
その次が大切のはずだ。


我が町工場でもそうだ。
困難な事にぶつかると頭がパニックになりその先如何なる行動に出るべきか考える事すら
拒否することがある。
その事実をただ他人へ報告するなら誰にでもできる。
その困難の先を考え提案しそして議論になれば素晴らしい結論が待ち構えているはずだ。


ものづくりに最も大切な科学的議論。
それすらもいとも簡単にないがしろにしてしまう力の強制力。

やはり力は怖い。
常に恐怖が付き纏う。

皆さんは力に対して従順ですか。
それとも。。。。。


今回も結論がないのが結論だ。




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それでは又です。




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「量子力学と私」朝永振一郎著、江沢洋編。


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2007.4.15by 博多の森と山ちゃん