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あいまいこそが発展の糧であろうか。

最近読破した本。
「百万分の一の歯車」松浦元男著。

そして
「スルメを見てイカがわかるか!」養老孟司、茂木健一郎著。
「死の壁」養老孟司著。
「99.9%は仮説」竹内薫著。





先ず松浦元男氏は町工場の親父、経営者だ。
この会社で作る製品は日本より国外での評判が良いらしい。
それはものづくりに対する認識の違いからということだ。

日本では先ず価格。
そしていかに社内で無事安泰に過ごせるかを一番に考える。
そのため、その製品を使う事によりわが身にふりかかる危険がもしあるとすると
購入する動機は失われるという事らしい。
そして日本の会社のなかに歴然と存在する政治性。
もの以前に人間そのものに与える影響が先ずは先決ということらしいのだ。
しかし、海外のある国では素晴らしいものを作ればそのものを純粋に評価される。
それは決してもの以外に存在するいかなる環境をも一切排除して。
詳細な内容は本を読んでいただきたい。
同じような内容は先日紹介させて頂いた「お金は宇宙から降ってくる」中村義一著にも
掲載させていた。

つまり世界を先んじて開発された商品をそのものを見れるか見れないかという
環境の違いだろうか。

しかし、私にとっては実のところどうでも良い。
私は日本国に暮らしている。

ただひたすらこの世にない製品を作るべく情熱を持ち続け努力するだけだ。

先を急ぐ。


次に私の好きな脳科学者茂木健一郎氏。
養老氏の著作を読んだのは実はベストセラーだというわけではない。
私は逆にベストセラーという言葉が付いた本は何故かしら自分自身より
遠ざけてしまう。

しかし、昨今何故養老氏の著作を読んだかというと茂木氏の著作に
養老氏の名前があったからだ。
そのため興味を覚えついつい読んでしまった。
これで養老氏の三部作といわれる「壁」シリーズをあっという間に読んでしまった
ということになる。

そして竹内薫氏。
この方は元来物理学者であったようだ。
しかし、今現在はとても科学に詳しいミステリー作家。
私は実は無頼漢な面がお気に入りだ。

そんなことどうでも良いのであろうが。

既に上記にあげた3著作の内容は大部分忘却のかなたへと既に旅立っている。

しかし、自分の文章というとても世間では失礼という表現が似つかわしい内容を
自分なりに感じた点をいくつか並べてみようと思う。

この先も付き合っていただけるなら私はとても幸せ者に違いない。


先ず「言葉」。

初めに言葉ありきという有名な表現がある。
確かに言葉で表現しない事には自分の思いを伝えることは難しいであろう。
しかし、この言葉はとても曖昧だ。

例えばコンベア。
日頃弊社はこのコンベアと携わっているためこのコンベアという言葉を聞くと
頭の中には様々は種類のコンベアを思い浮かべることができる。
しかしだ。コンベアというものを見たことがない人物は。
どう頭に思い浮かべるだろう。

確かにコンベアは一つ極端な例かもしれない。

それでは誰しもが知っていると思われるみかん。
みかんという言葉を聞いて何を思い浮かべるだろう。
実はこのみかんにも種類があり、そして色の若干の違いがある。

ある人は夏みかんを。そしてある人は冬みかんを思い浮かべるかもしれない。

そうなると言葉を発する人間とその言葉を受ける人間。
常に全く同じ認識であるかどうかは疑問符が付く。

しかし、先ず他人とあった際いかがであろう。
会話をするだろう。そして言葉を発してそして言葉を受ける。

そしてこの言葉。
果たして自分の思いを100%表現できるだろうか。
又、表現すべきかどうかも考えるのではないだろうか。

自分で感じたこと。そして思いついたこと。
100%言葉で表せるか。
そして又、言葉で表す必要があるかどうか。

どうしても人と相手に認められないと生きていけないらしい。
相手がいるからこそ自分もいるらしいのだ。

どういうことかと書くと。
先ず人間という漢字。
これは人という一文字一人称で終わっていない。
他の動物。
犬でも然り。猫でも。
そして高等な動物である猿。
全て一人称で終わっており決して次に付く言葉はない。

何故人には次に間という漢字が付くのであろう。

人ではなく。人間。

それは人とは決して一人では生きていけない。
相手が存在しそして相手に認めてもらう。
それこそが人の生きる道なのだろうか。

この内容が身近で感じられる行為がある。
それはいとも簡単に感じられるとてもわかりやすい行為だ。

「けなす」と「ほめる」。

先ず「けなす」。
威張った人間。嘘はったりの人間が良くやる行為である「けなす」。
常に自分が相手より優位に立っていないと満足できない。
あるいはそれこそが偉い。つまり自分の弱さを懸命に隠そうとしている人物だ。
その行為の冠たる行為に「けなす」という表現がある。
しかし、これらの文章は既に私はけなしているのではないだろうか。

先を急ぐ。
けなす相手。つまりけなされた方の人物。
傷つきそして相手を憎む。あるいは恨みの感情まで湧き上がる。
そしてその行為を一生忘れない事さえあるという。

この行為は果たして相手を認めるという表現の近くにある行為だろうか。


続いて「けなす」と全くの対称にある「ほめる」
ほめられて恨みに思う人はいるだろうか。
あるいは一生憎しみを持つ人物はいるだろうか。

この行為は相手を認めという行為に最も近いと思われるのだが。


人である。そして人間である。

「言葉」という表現から一体何を書いているかわからなくなってしまった。

実は言葉は曖昧であると書きたかったのだ。
この曖昧とはとても重要な言葉らしいのだ。


人間が生きて行く上で必ず守らなければならない規則がある。
それは先ずは法律だろう。
それは目に見える明文化されている表現だからとてもはっきりと認識できる。

しかし、守るべきいや守ろうとしているという表現の方が的確なのだろうか。
明文化されたいない生きて行く上で守るもの。
それは「常識」。

言葉が曖昧であればこの常識もとても曖昧だ。
果たして皆同じ常識を持ち合わせているのだろうか。
しかし、それは一方明文化されていない法律とも言えるのだろう。

よく聞く言葉。「最近の若者は常識がなくって。」
この表現は古来よりある伝統あるとても由々しき表現方法ではなかろうか。

つまり常識とは曖昧であるゆえにもちろん世代間での常識の違い。
男女間。
そして国が違えば常識とは異なるのではないだろうか。

それでは常識とは明文化されるものであろうか。

常識が時代と共に変化するとすると。
あるいは人により常識そのものが異なるとすると。

常識を明文化するのは困難であろう。


では何故常識を守ろうとするのか。
それだけ曖昧な表現である常識などかなわなければ良いではないか。

それこそが人間だろう。
相手に認められようとする。
人ではなく人間だからこそ相手に認められようとする。

常識のない若者は表現こそ違えもしかすると相手から認められようと年配の方々からすると
実は常識外れの行為をやっているのではないだろうか。


「常識の違いと枠」

曖昧である常識は曖昧であるからこそ人によって違いが生じるのは頷ける。
しかし、常識という枠で何とか自分自身をはめてしまおうという考えが生じることがある。

それは実のところ一面では常識という表現に自分自身の弱さ。そして安定そして
安心。
不安な要素をなくす為に常識という言葉によりすがっていないだろうか。

良く耳にする言葉。「そのくらい常識だ。」
その常識という言葉を表面に出すと周りは安心するという心地の表れかもしれない。

実はご存知の通り常識とは変化する。
時代と共に変化する。

常識によりすがっているという事は実は安心とは程遠い生き方かもしれない。
なぜならその曖昧である常識が著しい変貌を一瞬のうちに変貌を遂げた場合。
恐らくその人物はパニックに陥る可能性すら予感させる。


そして今回の結論である「科学」。

この著者誰しもが語っていることに「科学とはわからないということが判る」ということ
らしいのだ。

わからないことをわかる為に科学は存在していると思っているふしが私には
少なからずある。

物理の世界では何とか数式で表現しようとする。
数式とは数字がありその数字とは絶対的な存在なように思える。

しかし、確かに考えてみると古典物理学であるニュートン物理学の数式には
必ず前提条件が付く。
そして絶対と思われていたニュートン物理もアインシュタインの相対という考え方により
いとも簡単に塗り替えられた。

そして科学とは常識という枠が必要かどうか。
それが破る為に必要だとしたら。

しかし、破るという表現にはその破るための内容を知っておかねばならない事は
書くまでもないだろう。
存分なる知識の蓄え。
それは何も頭だけの知識ではない。
人間には頭だけがあるのではなく、足もありそして手もある。

つまり実証科学なのだ。
人間として常に必要な事は頭と体。
つまり実践。実証科学がとても大切な要素に違いない。

科学には常に実験という表現が付いて回るように。

宇宙科学者にホーキングがいる。
このホーキング氏の著作をいくら読んでも一向に理解できない。
このホーキング氏について竹内氏は理解できない理由を記載してた。

それはこのホーキング氏。
理論の前提条件が絶対から導き出されているのでなく、そもそもの始まりが
絶対の反対である相対である。

つまり私が書けば、理論そのものがどうでも良いところから出発している。
それはとても曖昧でありそして相手がどう受けとろうがかまわない。
そこから出発しているという言う事だろうか。

私はホーキング氏の考えこそが科学そのものを表現しているといわざるを得ないか
どうか迷うところだ。


本日は長々と書いてしまった。
何を書きたかったか自分でも既に把握できていない。

実は、それは私が曖昧である人でなく人間だからだとかっこつけた言葉で終わらせ
たかったのだと書いた途端に皆さんは怒り出すであろう。


それでは又です。


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2006.7.4by 博多の森と山ちゃん



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